29.吉井源太の手紙(控)石田英吉あて/石田英吉との交流/前田正名との交流

吉井源太の手紙(控)石田英吉あて

明治30年12月5日他(1897)

(現代語訳)
拝啓 本月3日付の貴翰投与下さり千万有難く、拝見いたしました。御不勝の御ことにつき、須磨の浦に於て御養生の御趣、承知いたしました。さぞさぞ御難義の程お察し申し上げます。何と言いましても御快方との御こと、千亀万鶴に存じあげます。時候は寒冷の時、御養生全一に願い上げます。かねてお伝えしていたように、御両貴家(土方久元・細川潤次郎のこと)に立ち入る何の道橋もございませんので、朝夕大君の御上京をお待ち申すのみでございます。なおこの上ながら御全快の上の御上京を願っております。その節は万端依頼申し上げたく存じます。この段お願いいたします。

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時下 寒気が日増につのります。益々御清福お慶び申し上げます。先日来庵いただき、色々と石田様の御配慮を頂戴いたしました。宮内大臣(土方久元)に於ては題字を願いあげ、細川(潤次郎)、前田(前田正名(まさな))両君には序文を願いましたところ、皆々承服下され、満足の至りでございます。さて、細川君におかれましては、本日、皇太子が相州葉山に於て2ヶ月間除寒致される際の供奉になられましたので、現地へ原稿を持参致されます。すぐに製本の段取りにはなりませんので、ひとまず帰県する積りでございます。東京に於て代理をたて、万事用件を頼むことにいたしましたので、色々手の届かない事も少なくございませんが、致し方なく。帰県の際には袋井の製紙場を一覧致し、2泊計して、それから帰高の積りでございますので、ちよっと御報せ申し上げます。なお寒気の御保養等お願い申し上げます。

【石田英吉との交流】
石田英吉は安芸郡安田村の郷士。龍馬の義兄であった儒学者の高松順蔵に師事し、後に緒方洪庵から医術を学んだ。志を持ち脱藩して吉村虎太郎の天誅組に参加するが、大和挙兵で破れ、長州に身を寄せる。高杉晋作の騎兵隊にも関わった。龍馬の亀山社中や海援隊で重要な役割を果たしている。維新後は貴族院議員、男爵。
龍馬が慶応3年6月10日、木戸孝允にあてた手紙に、「石田英吉より詳しく申し上げる」というくだりがある。また、同年8月24日、佐々木高行あてに、「石田英吉の船中は、兼て衣服少なき諸生なれば甚だ気の毒なり。金を御つかわしなれば、早速に求候。」と書かれている。石田は幕府から借りた長崎丸の船長として薩摩へ航海していた。
一方、源太と石田英吉は、石田が高知県知事であった頃(明治25年11月~明治30年4月)に紙業振興を通じて深く交流していた。源太が『日本製紙論』を上梓しようとするときに題辞等を土方や細川に頼みたいと考え、石田を通じて最初の打診をしてもらったようだ。
石田が明治34年に京都で亡くなったときには源太にも知らせが届き、これに対して丁寧なお悔やみと手向けの句が送られた。

【前田正名(まさな)との交流】
慶応2年にユニオン号購入に関して薩摩・長州・海援隊の間に紛議が起り、龍馬が調停にたった。藩主間での親書交換があり、これにより和解したが、前田正名はこの時の使者の一行に加わって長州へ行き、解決した後は単身長崎へ向い、龍馬に事態の決着を報告する役目を担った。当時17歳。
明治2年からフランスに滞在、7年に及ぶ留学の後、有用植物の種子や苗木を持ち帰る。大久保利通によって作られた三田の育種場の場長となり、これらの植物はここで栽培された。源太もここを訪れたようである。
前田はその後農商務省大書記官また農商務次官にもなるが、省内での対立等により農商務省を去り、在野で地方産業振興の活動を精力的に行った。

【土方久元・細川潤次郎について】
土方久元(楠左右衛門)は土佐出身の宮内大臣で、三条実美の衛士を務めた。
細川潤次郎は土佐藩で儒学者の家に生まれた。吉田東洋に引き立てられ、藩校の教授となる。中浜万次郎と交流があった。維新後はアメリカへの留学を実現する。日本の法律起草に深く関わり、枢密顧問官や貴族院副議長を務めた。
細川潤次郎が源太の富嶽図に賛を入れたものは、いの町紙の博物館他に収蔵されている。