28.吉井源太の手紙(控)山崎喜都馬あて/山崎喜都馬との交流

吉井源太の手紙(控)山崎喜都馬あて

明治19年・明治22年・明治34年

(現代語訳)
明治19年11月17日
山崎喜都真氏来車を以て試検の伝習

拝啓 寒気になりました。ますます御安静で貴府にお着きになりましたか。万事お慶び申し上げます。さて先般御来車いただきました節、病気で万事失礼至極にて恐縮いたします。その節数日お手数ながら伝習をいただき、こちらの各有志の者よりも御礼を申し出ております。その品は本日に於て余程沈殿いたしましたので、別紙記載の通りでございます。またこの上御考えをお願いいたします。   頓首百拝
山崎喜都真様   12月1日   吉井源太


一、その品は水量3合ばかり(その底に沈むものは1合程度。色はタマゴ色で純白ではない)ねばい事は薄糊を煮たようである。臭いことはやはり松脂のようである。指を漬けて見るとそのねばりは脂のよう。あまり少量で製紙に混合することができず、大阪ヘ註文致しましたので、製紙をご覧に入れます。

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明治22年
2月19日の貴翰拝見いたしました。まずは御清福お慶び申し上げます。さて御依頼の簀桁を早速にその手の者に頼みましたところ、快く請負いましたので、4、5日の間にできます段取りに致しておきました。できましたらすぐに御送付のため積み入れます。器具の代価表を送付致しました。申し上げ兼ねますが、職工は小身で無資本の者でございまして、代金の願出を申しますので、郵便為替を以て高知升形紙業組合取締、吉井源太と御宛下さいますように。器具は10日間ほどで貴地に着致しますので、この段御報告致します。
簀2枚代7円  桁1個1円50銭 外に箱運賃共70銭 〆9円20銭
2月25日   都真様

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明治34年
時下秋冷にございます。益々御清福お慶び申し上げます。草庵無事に営業いたしておりますので、御神休ください。近来は御無音いたし、この段お許しくださいますように。さて又々日独工業広告の再びの御投与いただき、有難く拝見いたします。誠に、貴書を拝見致しますと尊顔に御目通りしておりますココロ持ちが致します。さて、製紙類段々と改良致し、善美なるものが出来てまいります。山々のこと申し上げたいと思いますが、上京の希望もございますので、その節、貴顔拝したいとぞんじます。先は今般の御礼まで。 恐々 頓首 百拝


山崎喜都真様 [東京麹町区土手3番地32番地]  吉井源太

【山崎喜都真との交流】
山崎喜都真は土佐藩士で、後に農商務省の官吏。ドイツへ留学して製紙を学んで帰国した。源太とは長い付き合いとなった。源太が製紙法の質的な変革を行う最初の取り組みが山崎からの教示を受けての松脂漉き混みであった。新しく取り入れられた薬品を使っての試みは当初、源太にとってその薬品の名前もわからない状態であった。農商務省の吏員は産業振興のため各地を巡回して指導にあたったが、山崎は源太の製紙場へきて松脂漉き混み(ロジンサイズ)の方法を教えたことがわかる。これに対して体調不良の状態であった源太がその失礼をわび、指導に対して丁寧に礼を述べるとともに、実験結果のその後の様子をきちんと報告している。この後源太は独自で実験をくり返し、和紙へのロジンサイズ(松脂を漉き込んでのにじみ止め)の方法を確立した。
龍馬の手紙では、慶応3年11月10日、林謙三あてに、「別紙山崎へ送り候間、内々御覧の上山崎へ御送り・・・」というくだりがある。この数日後に龍馬は暗殺されてしまう。手紙の山崎とは、盟友陸奥宗光らが、暗殺犯として紀州藩士と新撰組らを急襲した京都の天満屋事件に加わった、山崎喜都(津)真のことだとされている。