27.吉井源太の手紙(控)中浜万次郎あて/ジョン万次郎との交流/河田小龍をめぐって

吉井源太の手紙(控)中浜万次郎あて

明治30年11月(1897)

(現代語訳)
拝啓 時下寒気の候 益々御清福お慶び申し上げます。然に中濱留女より私の上京に同伴致したいとの依頼に預り、ともに上京いたしました。この留女は15歳の時より19歳に至るまで弊家に参り、製紙の手伝いを致してくれた者でございます。今般上京の存立は伯父老君に久しく御逢せず、一度御挨拶に何卒東京に連れて行ってもらいたいと申し出られ、このように同伴致しました。お願いの筋も有りますが、自身より御相談出来難いものと存じ、愚老が御挨拶に罷り出る所でございますが、明日の日曜日、御休暇の日に御目通り致したく、この段お願いいたします。 右御返事を願い上げます。
万一私が御目通り叶いません時は留女を参楼致す様に取り計らい申しましたので、直接お話しになりますように。田舎者が道々旅費を才覚しての上京の所で、この節は宿料も底をつきました。一日も早く帰高致したくございますので、何卒色々御願い申し上げます。
中浜万次郎様  中浜東一郎様

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(中浜家訪問を留守宅へ知らせる手紙)
前略 私は21日少々風邪であったので苅谷兼治氏の診察に預り、全快致しました。病気であったためにかねて希望のことに手を出さずにおりましたが、明日より手はずにかかりますので、ご安心あれ。留女は中浜に参りましたところ、万次郎氏はおおいにかわいがり、各名所、展覧所を連れ廻られ、至極愉快の様子でした。留女は近々、10日間のうちには帰り仕度を致す事になりました。さて、カマキリを送ってください。遠火で焼き、ブリキのカンに入れて少々でも寄こしてください。お隣ヘは書札を出さないので御伝言を宜敷お願いします。
留主へ     11月26日

【ジョン万次郎との交流】
源太とジョン万次郎との意外な結びつきである。中浜留という女性が15歳から19歳まで源太の製紙場で手伝いをしていた。この留女は万次郎の姪にあたると考えられ、源太の上京に同伴し、久しぶりの挨拶をしたり、何か願い事を聞いて貰いたかったようである。若い女性一人での上京、中央で活躍している伯父との面会、ましてや何か依頼事をするということは非常に困難だと感じられただろう。源太もそれを汲み取って、東京まで連れてきただけではなく、万次郎氏や子息の東一郎氏へ手紙を出し、面会を仲介している。
2つ目のものはこの時の様子を源太が自分の留守宅へ知らせている手紙。留女の中浜家訪問はうまく行き、無事に帰りの手はずも整う予定であることがわかる。
以下のカマキリの件は、後にこれを東京の出版社にいる親しい知人に見せ、酒席での何かの話に使ったようである。親戚筋にあたる「お隣」への伝言も頼むと申し添えてあり、濃(こま)やかな心遣いが感じられる。

【河田小龍をめぐって】
ジョン万次郎は嘉永4年(1851)にアメリカから琉球経由で土佐へ帰った後、吉田東洋の藩命によって、絵師の河田小龍らから面接を受けた。そこで聞いた内容を小龍がまとめ、1853年に藩主へ献上したのが、「漂巽紀略」である。同年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航しており、この記録は貴重なものとなる。龍馬は小龍に会って、アメリカをはじめとする世界の状勢を教えられたという。
また、小龍と万次郎は、この調べがきっかけで、土佐藩に登用された。小龍は明治9年、高知県勧業課に出仕し、吉井源太もたびたび出品した内国勧業博覧会の高知での事務係を務めたり、自身も絵を出品したりしている。
和紙を求めて伊野や高岡へも訪れていた小龍は、明治20年(64歳)には、「製紙場晴色」という題で、伊野丸一工場を近代南画のごとく描いている。今後、小龍と伊野、紙とのつながりにも注目したい。

(参考/「河田小龍-幕末土佐のハイカラ画人―」高知県立美術館発行)