25.吉井源太の手紙 高田虎武あて

吉井源太の手紙(控)高田虎武あて

明治31年3月(1898)

(現代語訳)
追々と春暖の頃になって参りました。ますます御清福お慶び申し上げます。
先日幡多郡へ出張致しておりました。貴君に御面倒な御手数を御願い申し上げたく存じます。
私は73歳になりましたが、貧生のため古稀の祝いも過ぎました。このたび製紙伝習生や子分の者たちから祝ってくれるということになりましたので、細川大君に恐縮ながら御面倒を御願い上げたく存じます。
その事情とは、私が不二を画き、その上に御賛を願い上げたく存じます。甚だ恐縮のいたりでございますので、申し上げかねることにございましたが、この段、御依頼申し上げます。
私の不二の画につきましては少々由緒がございます。昔、品川御殿において容堂様の御賛を頂戴した事がございます。それで細川様の御賛を願い上げたく、万一下さいます場合は対幅にして頂戴致したく存じます。かないましたときは家の富と致します。
何卒先生よりこの段を御願い上げ下さいますように。もし万一御願いがかないますときは、小包を以てさし上ますので、御文章、御詩作、または和歌、発句なりともけっこうでございます。御有無の御返事を頂戴致したく存じます。

高田虎武様

(解説)
源太が70歳をこえ、古稀の祝いが行われるはずのところ多忙のためそれもなく3年が過ぎた。
これまで製紙業を教えてきた人々から祝宴をとの声があがり、せっかくのお祝いの機会に細川潤次郎に自分の富士の絵に賛をいただきたいと願って、細川家の書生、高田虎武に取次ぎを頼んだもの。
源太の富士の絵はかつて容堂公から賛をいただいたこともある自信の作である。
細川はこれに応えて源太の絵への賛をおこなったようで、源太は5月にこれに対する丁寧な礼状を送っている。