坂本龍馬の手紙 乙女、おやべあて
慶応元年9月9日(1865)
(現代語訳)
私どもと一緒に頑張っているのは、2丁目の赤づら馬之助(新宮馬之助)、水道通横町の長次郎(近藤長次郎)、高松太郎などで、望月(亀弥太)は死んでしまいました。
20人ばかりの同志を率い、今長崎の方に出て訓練に励んでいます(亀山社中)。
土佐から来た中で一人イギリスの学問所に学んでいる者がいます。日本からは30人ほども行っており、一緒に訓練に励んでいますが、なかなか頼もしいことです。
私は、一人であちこちに出向き、時期が来れば各藩にいる人たちを率いて、一斉に旗揚げしようと今京都にいますが、5、6日のうちにまた長崎の方に行くつもりです。
けれども、お便りなど下さるなら、伏見宝来橋の寺田屋伊助まで送って下さるようお願いします。
まったく、土佐のような所で何の目標もないような所でぐずぐずして毎日を過ごすのは全く大ばか者です。 (後略)
(解説)
この年の3月18日に神戸海軍操練所が閉鎖となり、龍馬たちは閏5月頃に長崎の亀山に出て、社中を結成しました。この手紙を出した9月頃は、薩長同盟に向けて奔走していた時期になります。
手紙の書き出しでは、乙女もよく知る近所の若者たちの名前を挙げ、今は20人ばかりを引き連れ、長崎で船の稽古をしていると報告しています。また、土佐のような所で、何の志もなくぐずぐずして日を送るのは実に大ばか者だとも論じています。
(高知県立坂本龍馬記念館『龍馬書簡集』より)