14.坂本龍馬の手紙 兄・権平あて

坂本龍馬の手紙 兄・権平あて

慶応3年6月24日(1867)

(現代語訳/追伸の途中より)
私が先頃京都へ出る途中で4月23日の夜、中国地方の海で私の蒸気船と紀州の蒸気船とが突き当たり、私の船が沈没しましたので、長崎へ戻り紀州藩と大議論を始め、ついに紀州とひと戦争しなければと、私の部下へは言い聞かせ、用意していましたが、紀州藩から薩摩藩へ仲立ちを頼み、書き物を持って、勘定奉行らが断りに出かけ、毎日手を尽くしましたので、そのまま許す事にしました。
皆が申しますには、この龍馬の船の議論が、日本の海上交通安全規則を決めたと言って、船乗りたちは私の所へ聞きに来ます。うれしいではございませんか。ではまた。

(解説)
慶応3年4月23日瀬戸内海で、紀州藩「明光丸」と衝突し沈没した海援隊「いろは丸」の海難事故談判で、龍馬の万国公法による論理と世論操作、後藤象二郎の押しなどが功を奏し、ついに紀州藩から賠償金が支払われることになりました。「これが海上交通の基本だと、船乗りたちの注目を集めている」と龍馬は鼻高々です。その決着から数えて約1ヶ月目。フレッシュな喜びを「追白」にまとめています。

(高知県立坂本龍馬記念館『龍馬書簡集』より)

※万国公法とは、今でいう国際法の解説書です。当時のアジア諸国にとって、西洋の国家や社会のしくみを知る上で貴重な情報源でもありました。龍馬はこの議論に備えて万国公法をいち早く読み、世界のルールを引き合いに出して、紀州藩という大きな相手と直談判しました。その経過で世論を味方に付けようとしただけでなく、この万国公法を国内でも普及させ、世の中を改革したいという考えもあったようです。