9.吉井源太の資金調達願い

吉井源太の資金調達願い

明治18年6月(1885)

(現代語訳)
「白土製造に付 資金拝借の願  一金 800円」


この白土のことは、製紙に混合する第一の品で、現在営業者で使用しない者は無い。関東において発明し、各県に使用拡大した。我村内近傍においての使用は、私が明治15年に大阪府より取寄せて製造の試検をして鑑定、私より各村に拡大したもので、その有益なことは大である。
ただ今、商人が販売に来たところ、代価が高いので人々は嘆息するが、上等紙にするにはこれ以外にない。雁皮、三椏製においてこの品を混和しなければ光沢の潤色を得られない。
旧藩政時代、紙業が盛んな時を思うと、吾川郡苅山村、同安井村より産出があり、試した上でひそかに取出し、混合することがあった。製造に手数がかかり、そのまま混合してから石質を去ることをしていた。
この3月に西山に立入り実地を探索し、この品を試検するところ、同じ品と見えるものを得、製法を種々試検し、自製の紙に混和し漉立てた。その質は大阪の品同様になったので、製造を盛大に行いたい。
しかしもともと無産無資本の私ですので製造が難しく、資本を拝借したく存じます。この製造が盛になっていけば第一には製紙業上の扶助となり、第二には安井、苅山両村の無資本の民の業を援助し活路を開くことができる。
従来製紙に米糊粉を用いていたことは無益専一のことである。米質を紙に混合すれば、ただ白色をつけ、美しさを出すが、これを使用すれば記録用紙、貯蔵用文書には不適である。
製紙業人が米の使用を廃して白土に変えるときは、本県下に於て白米9万石の扶助となることが見込まれる。

(解説)
紙への混合が広まってきた白土について、高知県においては源太が大阪から導入して広めたことがわかる。ただし大阪から購入するものは高価であるので、県内での白土製造を進めようと考えて、そのための資本貸付を願い出たもの。相手は県だと思われる。
源太はいろいろなところから持ち込まれる白土が製紙に適しているかどうか、試験を頼まれることもよくあった。
これにより、製紙業において安価な原材料で上等紙が漉けるようになるだけでなく、白土を産出する村人の生活においても助けになるとしている。
さらに、これまで使われてきた米の粉をやめることができるので、白米の節約となり、これによってできた余分の米は海外へ売れば良いと考えてもいた。
明治36年に、県下の製紙高からして、米粉を白土に代えることによって、おおよそ5,000人余りが1年間に食べると同じ量の米が節約できているはずだと計算している。