5.坂本龍馬の手紙 林 謙三あて

坂本龍馬の手紙 林 謙三あて

慶応3年11月11日(1867)
暗殺4日前の手紙

(現代語訳)

10日お書きになったお手紙、 11日に届き拝見しました。いろいろのお考え、良く分かりました。その中でも、北海道開拓のことは、特別に、前々から思い続けていたことですので、(あなたが、私と共に次の機会を待って下さるというお考えに)もちろん、同意いたします。(中略) やがて自分も考えをまとめ、修羅となるか極楽となるか分かりませんが、新しい事態に、あなたと一緒に取り組んでいきたいと思います。さようなら        龍馬

(解説)
この前日の10日、念願の北海道開拓に使用する「大極丸」の借り上げ資金が間に合わず、計画を白紙に戻すことになったため、船長格の林謙三に手紙を書き「もっと力を出せる所があれば、海援隊を離れてもいい」と、わびを入れました。その返事として林から「海援隊に残り機会を待つ」と言って来たので龍馬は喜び、この手紙の前段を書きました。

(高知県立坂本龍馬記念館『龍馬書簡集』より)

※龍馬が晩年まで何度も試みて失敗した北海道開拓の夢。それは、尊皇攘夷派の志士たちが持っていた情熱を内戦で散らすことなく、新天地を開拓する貴重な人材として活用し、貿易を行い、同時に海軍をも養成したいという、天下国家への思いの結晶でした。龍馬はそこにぜひ林謙三の力を借りたいと願っていたのです。

林謙三(安保清康)は広島の出身。英国軍艦に乗り組んだ後、薩摩藩で海軍養成に従事しました。維新後は日本の海軍で活躍した人物です。

この北海道開拓の夢は明治になって、龍馬の甥・直寛が土佐からの開拓移民団を率いて北海道へ移住し、龍馬の志を継いでいます。また、北見市と高知市は当時からの縁で、姉妹都市として交流を続けています。