22.防寒紙

防寒紙-時代の中で-

『日本製紙論』によると、土佐では明治以前に紙子(かみこ)という紙製の衣服があり、儀式用として使っていたが、明治になって使うことがなくなった。防寒紙というのは紙製衣服の材料となり、これで軽くて大変あたたかい衣服が作れる。明治の防寒紙は昔の紙を改良したもので、はるかに強靭で保存に耐えるものになっている。

写真/(公財)土佐山内家宝物資料館所蔵の儀式用紙子

日記によれば、日清戦争の時、軍隊の防寒のために寄贈してから「防寒紙」として名声を博した。軍で試しに用いてみた結果、4週間くらいは効力を十分に保っていることがわかり、容積、重量が小さいので役に立つことが確実だとしている。

この紙の漉き方について。原料は繊維の長い楮を用い、漂白はほとんどしない。また、水気に耐えなければならないのと、強靭性を増すためにコンニャク粉やミョウバンを混ぜて漉くようにする。このようなことは昔の紙子にはしなかったことで、改良点といえる。また、コンニャク糊を出来上がった紙に引き、よく揉むという方法も書かれている。

この紙は日清(明治27~28年)・日露(明治37~38年)戦争に出兵する兵のために作られ、日記にもこの時期にのみ記述がある。日記にこの紙が初めて登場するのは明治27(1894)年10月末。日清戦争の開戦は同年8月1日。11月末には「陸軍の防寒紙請負」という記述がある。その後数百枚単位で製造して、軍やその関連の組織へ納品している。日露戦争の時は、各地から製法の問合せがあるという記述が多くなる。

写真/高知市朝倉陸軍墓地には日清・日露戦争による1万2千余柱の戦死者が眠る。源太の親戚で日露戦争に出征した陸軍中尉・西本守太郎の個人墓もある。

◇◆ 注釈 ◆◇
コンニャクイモを堀り、乾燥させてから臼でつくとコンニャク粉ができる。この成分はグルコマンナンという多糖類で、デンプンの糊よりも強固な接着力を発揮する。源太が書いている改良の方法はこのコンニャク粉を混ぜたり、ある程度の防水性のためにミョウバンを混ぜて漉くようにしたということだろう。コンニャク糊はアルカリで処理することによって、より固まる性質があるので、そういった方法も試したかもしれない。

風船爆弾になった和紙

太平洋戦争末期の昭和19年(1944)~20年、日本はアメリカへ向け、風船爆弾なる兵器を飛ばした。楮で漉いた大きな和紙をコンニャク糊で防水加工して張り合わせ、直径10mの気球を作る。上空1万mの強い偏西風(ジェット気流)に乗せて爆弾を運ぶという作戦である。全国の和紙産地で、主に女学生たちが動員され、大量の気球用紙を作った。土佐和紙も気球の材料になった。約1万5千個が発射され、アメリカ本土へ到着した爆弾もあったという。

現在、式典などでビニール風船に代わって登場した環境にやさしい紙風船には、爆弾の面影はない。しかし、近代の産業の例にもれず、紙産業も戦争と無関係ではなかったのである。