9.ちぎり絵に活路

ちぎり絵に活路
―土佐典具帖紙で彩る魅力―

戦後数十年の高度経済成長期に、手漉き和紙の衰退にともなって、土佐典具帖紙の職人も、廃業や他の紙への切り替えを余儀なくされた。その状況で典具帖紙のみを漉き続け、後に人間国宝となった最後の職人が、神谷の濵田幸雄である。彼は京都の紙問屋からの求めに応じて、本来は白一色だった典具帖紙の顔料染めに成功したが、容易に販路は拓けなかった。

一方、昭和50年代には全国的なちぎり絵ブームが起こっている。昭和51(1976)年、ちぎり絵の指導者である亀井健三が、当時「幻の紙」と呼ばれていた土佐典具帖紙を求めて、初めて濵田宅を訪問した。そこで20万枚に及ぶ染め紙の山を目にして、その品質に感動し、自身の和紙ちぎり絵教室で使う方法での支援を決意する。それまで厚い紙が主体だった和紙工芸の世界に、一躍、貼り重ねてグラデーションの表現ができる極薄の色典具が躍り出た。

高知から亀井健三の岡山教室へ3年通った、高知で最初の弟子が、北村霞代子・山本孝子・大久保紀子(故人)である。昭和57(1982)年に高知へ亀井健三を迎えて「高知和紙ちぎり絵サークル」を開講し、翌年から精力的にサークル展を開催してきた。亀井を通して地元の土佐和紙、とりわけ土佐典具帖紙のすばらしさに目覚めたという。

高知や全国との交流展をはじめ、平成4(1992)年にはアメリカ・ボストンのピーボディ・エセックス博物館での「土佐和紙アメリカ展」にもサークルで参加している。また、平成11年にはシンガポールで「ホビーフェアエキシビション」へ招かれ、北村はサークル代表で参加した。このサークルを土台に、「土佐和紙ちぎり絵交流会」が誕生している。シンガポールや韓国ソウル(日韓土佐和紙ちぎり絵交流訪問団として)・台湾などを訪問した他、中国各地とのちぎり絵を通じた文化交流は以後も続き、現地でのちぎり絵指導者の養成講座や小学校・幼稚園向けの教室をたびたび開催する。また、いの町や南国市の小学校と海外の小学校との国際交流も取り持ち、土佐和紙の魅力を発信してきた。

こうした交流の場に、土佐典具帖紙は欠かせない。北村は「典具帖紙がなければ作品ができない」と話し、しっとりとねばりのある紙質と豊かな表現力を賞賛する。「紙に恵まれた高知、まさに紙様」だと。

いの町紙の博物館の開館時には北村の尽力で、亀井氏のサークルの全国展が開催された。以来、高知のサークル展もたびたび当館で開催され、好評を博している。平成17年には「土佐和紙に魅せられて~北村霞代子 あゆみ展」を開催した。

仲間づくりからちぎり絵を始めたという北村は言う。「ちぎり絵は和紙でないと表現できない世界。そこには創る人の人生の感動があります。私たちは紙のご縁、“紙縁(しえん)”で紙の仲間に助けられています」

※北村霞代子受賞歴
平成元(1989)年/高知県知事より、高知県産業技術功労表彰。
平成12年/高知県知事より、高知県文化環境功労者表彰(国際交流)。
平成13年/全国和紙連合会より、日本伝統産業手すき和紙振興功績賞。