7.京花紙への転身

京花紙への転身
―薄紙の技術で家庭紙ブームを築く―

家庭でさまざまな用途に使われていた京花紙(きょうはなし)。手漉きの京花紙は楮の薄紙で、典具帖紙に似ている。この普及品タイプ(2号)は、表面が硬く、用途によっては手で揉む必要があった。これを、ウェットクレープという製法で、柔らかくシワ加工したのが「セミクレープ京花紙」である。開発したのは、河野製紙の河野楠一であった。理論的には知られていても、他社が開発できなかった紙である。

伊野で生まれた河野には「京花で高知を紙どころ日本一にする」という夢があった。当時、京花紙のトップは香川の高松で、高知は二番手。それを、苦心して開発したセミクレープ京花紙で挑戦していった。時代はあっという間にセミクレープ京花紙旋風に突入。トップの座は昭和38(1963)年から48(1973)年の10年間、オイルショックによって安価で新しいティシュペーパーに追われるまで続く。昭和44年の高知県資料によると、京花紙2号は高知県の機械抄き生産額の約50%にあたる35億円の出荷額を上げ、質量ともに全国一だった。

楠一は高知のメーカー各社に工場と製法を公開し、技術は各社が工夫した。昭和46年まで家庭紙の工場は33社あったが、すべてが京花紙を製造していた(2011年には10社、うち3社が京花紙製造)。伊野駅から貨物列車が日に3両も出たほどである。セミクレープ京花紙の成功によって、高知の手漉き紙経営者が機械を据えて機械抄きへ転換していった。

オイルショック後の高知は、セミクレープ京花紙で蓄えた体力をもとに、京花・手漉き・ティシュ・障子紙などから、機能紙といわれる特定の用途を持った紙へ移ってゆく。自分の技術に見合った紙を、全国でもいち早く開発することで生き延びていった。

河野は、典具帖紙に代表される、伊野で培われた薄紙の技術を生かし、機械化の時代にあって、独創的な新製品で一世を風靡した。