1.吉井源太が伊野で改良

吉井源太が伊野で改良
―現在につながる明治期―

典具帖紙について吉井源太は、明治18(1885)年の日記に「世に多く出ているが、それは古い品で、小判である。目下改良を加え、大器具で製造している。製造品は美しく、西洋での話を聞くと、効用がある。国内でも便益がある」と書いていた。

明治以前には美濃和紙の産地で漉かれ、岐阜提灯に使われる紙だった小判紙2枚サイズの典具帖紙を、源太が改良した大型簀桁で、小判紙8枚取りの大判の紙にすることができた。この日記の文面からは、大判になったことで使い道にいろいろな可能性が開けてくるだろうという期待感が感じられる。そして、技術の高かった土佐和紙産地で源太周辺の職人たちが技術を習得し、次第に製造が盛んになる。

千年前には薄さを生かして、経典や花鳥画の透写に使われたと源太は記している。明治20年代のこの紙の用途は、漆こし、ガラス障子の裏貼り、おしろい箱などの内貼り、美術品や宝石類の内包み、鏡掛け、高級衣類の内包み、さらには医療用途など、生活の中で多種多様なものがあった。

大判になった典具帖紙は明治14(1881)年の第二回内国勧業博覧会に出品された。このあと明治16年に大阪府で開かれた関西連合共進会で一等賞を、また明治17年の高知県共進会でも一等賞を取る。

この頃から東京、神戸、横浜に販路を得て出荷し、人気が高まる。明治18年、22年にはアメリカとフランスでの万国博覧会で賞を取る紙となっていった。これは、この紙の質の高さを示すとともに、注目の高さも示していると考えられる。

販売見本として海外の取扱店へサンプルを送ったという記述は、日記の中に数回出てくる。明治18年にドイツへ、明治19年に中国へ、明治27(1894)年にはフランスのリヨン、そしてオランダのアムステルダムへ明治29年に送ったと書かれている。