源太日記と高知

高知県産地での伝習・交流
ー「源太日記」よりー

県内産地へは、当然技術伝習も多かったが、源太が同業組合などを組織しようとした交流活動を取り上げる。

紙業組合についての記述

記述のはじめは、明治18年、仲間数人とともに居住地域での組合結成を呼び掛けたものである。
「本村伊野の内、加茂分の区画、人戸はおよそ50戸強であり、その業務を観るに、農商工が軒を連ね、・・・・・・過半は製紙営業者にして、善良製造を申し合せる事はもちろんのこと。ここに有志が発起し協力して同業組合を決論するため、2月21日に加茂地方で懇和の宴を開き、永遠進歩のための道を奨励せん。皆様列席し宴会を開くため十銭を拠出くださるよう伏してお願いいたします。

明治18年2月21日
発起人 久松庄ノ介 中内貞次 末松弥三郎 小路楠馬 吉井源太」

明治22年には、国から出された方針に基づき、高知県内での紙業組合結成に尽力した。ただし、この時は状況が整わず、県内各地を巡回して組合への加入を説得していくが、反対意見や約束の不履行などを受けたこともあった。明治29年、新しく土佐紙業組合が組織されることとなり、組合員として、また巡回教師として活発な活動を行うことになる。
明治31年には「2月20日 具同入田両村落学校造築のため集会有り、村長の依頼に依り、具同八葉山、高野寺大師堂へ参る。両部落総数人戸380有余戸 集合人320有余名の中で、今般製紙伝習の事を談話致したこと、別紙の通りでございます。

紙業組合御中 吉井源太」

紙業組合の一員として実務的に活発に活動し、詳細に報告も行った。日記のつけられる最後の年となる明治39年には、「4月22日 紙業組合10年記念会。
公園に行く。大人数。」とあり、紙業組合結成10周年が大々的に祝われたことがわかる。ただし、天気は大雨であったようだ。組合を通して紙業を発展させ、海外との通商によって発展させたいという希望も書かれている。「5月4日 海外交際を拡張し紙業組合幸栄を主とすべし」
現存する日記の記述の最後は「官民に事業あり。農工商にしてエに紙業あり。盛り治乱昆々して昼夜区別無く、各業進歩しその本末を見るに荼り。ここに士佐紙業組合再設立し早や10ヵ年に及ぶ。この年記を挙る本月本日、組合の下員撰立ありて多年月東西を巡回し、今81老衰を踏み残し。初め高知紙組合明治19年より今会に至り勤労21年、前組合を合計し、21ヶ年と。その東西巡回の功風前の芥塵を見るべし。その産額300万円に達するものなるかな」となっている。81歳(数え)となった源太は、紙業組合設立に東奔西走した時代を含め、21年間をかけて紙業者の結束へ向けて働いたことの感慨と誇りをもっていたことが、へりくだった文の中にうかがえる。