源太日記と新潟

新潟県産地での伝習・交流
ー「源太日記」よりー

訪問・伝習の概要

石油企業を起こした実業家であり、殖産興業の志篤かった山口権三郎は、小国和紙の製造が衰退するのを見て、その振興に力を注いだ。製紙の先進地域を視察し、最も進歩していると考えた高知県から教師を呼ぶこととし、源太からの推薦により明治24年に久松儀平を招へいすることを決めた。これとともに、道具ー式の注文があった。「5月17日 新潟県越国刈羽郡横沢村 山口櫂三郎 簀桁註文」として、小半紙用各種桁、美濃紙用各種桁、半切用各種桁と、これらのための賃も2種類ずつ各3枚、刷毛各種など、必要な道具一切の注文記録が日記に残されている。合計金額は現代の価値で140万円くらいになったと推計される。この道具の一部は現在も現地に大切に保存されている。また、「5月18日 午前8時 山口櫂三郎来る。酒宴する」と書かれており、本人も来県して交友を深めた。

源太の仲間・久松儀平親子による伝習

明治24年8月13日に、源太の近しい仲間である久松儀平を新潟県へ教師として派遣する契約を山口権三郎と結んでいる。
「一、教師の件はかねて御通知致しました久松儀平を雇入につき、給料は1ヶ月20円の定めとして1ヶ年の結約致しました」しかし、25年10月12日の日記には「午後7時電報来る。久松儀平越後で病死す」とあり、源太は大きなショックを受けたことがうかがえる。この後、同年11月17日に「久松儀平死去の節は一方ならず御厚胤実に御礼申し上げ様もございません。この段親族ー同万謝いたします。また林之助の件は儀平の後役として御召屈いただき、これまた本望の至りと存じます。若輩ですのでなおまた御引立お願いいたします」とあり、引き続き教師として息子の林之助が雇われた。明治26年にはシカゴ・コロンブス万国博覧会への出品紙が褒賞を受けるなど、上達が見られ、伝習所の卒業生で製紙の事業を始めた人もあったが、大正時代 までであったとされる。