源太日記と島根

島根県産地での伝習・交流
ー「源太日記」よりー

訪問・伝習の概要

明治28年1月に賀状のやり取り先として以下の名前が挙がっている。

島根県那賀郡浜田産紙会社 岩間友隆
同 美濃郡益田本郷 斉藤藤五郎
同 那賀郡河内村 寺戸佐太治
  農商課員 藤田幸年
同(鹿足郡)津和野 牛尾友吉

岩間、牛尾の2人は明治19年にも「伝習のため来入」と記述されており、長年にわたるつきあいがわかる。明治29年には「島根県鹿足郡役所 田中知邦殿」あてに、製紙に関する質問への返事を源太が送っているが、教師雇用の費用、各種原料の価格、1日に漉く枚数、各種製品の価格など細かく答えており、熱心な質問の様子がうかがえる。明治35年の日記には次のような証明書の下書きが載せられている。吉井源太が他産地からの伝習生に対してこのような修業証明書を発行することはなかった。
「証明書 斉藤仁三郎 島根県(美濃郡)鎌手村字金山 高知県神の谷村 氏原佐太郎方に入り 数年間修業 典具帖紙 コッピー紙 その他改良紙に通暁し 原料煮晒方法まで 漉 切断 結束精錬 要点氏原佐太郎の申告に依り証明いたします 明治35年4月 吉井源太」
ここまで出てきた郡、村はすべて県西部の石見地方(石州和紙)の産地である。県東部の出雲地方では、源太の24歳年下で、親しい仲間であり、独自の活動を行った、伊野出身の新谷出来太郎が、八束郡岩坂村にできた紙業伝習所に招へいされて指導を行った。

源太の仲間・新谷出来太郎による伝習

安部榮四郎記念館による『手すき製紙の歴史』には、新谷出来太郎が与えた大きな影響について、簡潔にまとめられている。それによると、出雲国へ明治29、34、40 年の3回にわたって赴き、「土佐流」の漉き方を伝授した。その技は名人のものであり、比類のないものであったと賞賛されている。明治40年の伝習期間に風邪から来る腹膜炎のために57歳で急逝し、その功績を記念するために多数の門人により石碑が建立され、その後も守り続けられている。

伝習後の産地

新谷出来太郎が迎えられた八束郡岩坂村には大正期にも出雲国製紙伝習所が開かれ、後に出雲民芸紙を創製する安部榮四郎が研鑽を積んだ。この時の教師は、土佐で技術を学んだ足立三郎という人で、やはり「漉き方は土佐流」であると書いている(安部榮四郎著『紙漉五十年』)。