明治初期の和紙の状況

明治という時代の始まりに際して、和紙の生産や販売状況は大きく変わりました。これ以前は、藩の販売ルートや出荷の統制などがありましたが、それらがなくなる一方で、需要の急増があったために、粗製乱造が起こるなど、大きな混乱が見られました。国内での混乱の一方で、海外からの動きにもさらされることになります。明治維新により、これまでなかった海外の文物が流入するようになると、西欧で製造された紙が入ってきます。西欧で作られた紙のことは、この当時「西洋紙」と呼ばれ、これに対応して、日本で作られた在来和紙は「日本紙」と呼ばれました。日本に輸入された西洋紙は、印刷用紙や筆記用紙などとして使われました。
和紙を書画に用いる場合、墨・硯・筆が使われて来ました。ススと膠を練って作られる墨をすった墨汁を使い、筆で書く。在来の和紙は多くが楮(コウゾ)製であり、墨と筆で書くことに適していました。しかし、新しく西欧から入り、用いられるようになった印刷インキやペンのインクに対しての適応性はありません。印刷に対しては毛羽立ちが起こり、また、ペン書きの際には水性のインクがにじむなどのことが起こります。大量の需要が見込める印刷用紙、また、文書用紙において、和紙に替わって西洋紙が使われるようになることは必然の流れであり、和紙業者には大きな不安が起こってきました。

吉井源太没後110年記念企画展のお知らせ

吉井源太没後110年記念企画展
「紙の交流・源太と日本の和紙産地」
―明治から始まった絆を、新たに結ぶ―

(会場)
いの町紙の博物館 2階展示室
(〒781-2103 高知県吾川郡いの町幸町110-1 tel.088-893-0886)

(会期)
平成30年10月6日(土)~11月11日(日)
(月曜休館/祝日の場合翌日休館)

(内容)
明治時代に交流のあった紙産地との、新たな交流を。
いの町紙の博物館では、これまで、高知の紙産業発展の礎を築いた製紙家・吉井源太関連の企画展をたびたび開催して参りました。
平成30年、吉井源太没後110年(明治維新後150年)を記念した企画展のテーマは、「紙の交流」です。(源太没年1908年、明治維新1868年)
明治維新後、殖産興業の波に乗って新しい紙の開発が相次ぐなか、日本各地の産地から、職人たちが源太のもとへ、製紙技術や製紙道具(改良による量産化)などの新技術を学びに訪れました。あるいは、産地の要請に応じ、源太や周囲の職人たちが製紙技術の指導に出向いています。こうして明治時代に技術指導が行われた紙産地は、3府28県に及びました。その交流は大変深く、有意義なものが多く、お互いの産地に大きな足跡を残しました。
いの町紙の博物館は、吉井源太が残した詳細な日記の記録などから、島根県・鳥取県・新潟県・岐阜県・愛媛県の産地と、新たな交流を行います(産地は予定)。

土佐の吉井源太

吉井源太は、土佐藩へ御用紙を納める役割を担った御用漉家に生まれ 、自らも抄紙にたずさわった人です。文政9年(1826)に土佐和紙の中心的生産地域の一つであった吾川郡伊野村(現吾川郡いの町)に生まれ、明治41年(1908)に没するまで、土佐和紙の改良・発展に努めました。吉井は、当時の紙研究の最先端を行く研究を行っていた、大蔵省印刷局抄紙部という公的な機関はもとより、産業の振興を任務とした農商務省のほか、各地の紙商や貿易商などとも広く関わりを持ちつつ、情報を集めて研究を行い、新しい紙を開発していきました。
吉井源太は、明治期を通して日記を残しました。これは「いの町保護文化財」として高知県吾川郡いの町に保管されています。この日記は、明治10年代の日記(14年~が主)と明治20年から39年までの各年分の日記で、およそ1年分が400字詰め原稿用紙100枚平均になる分量です。
土佐和紙産地の中でも和紙抄造および新技術開発の中心地であった伊野周辺には、吉井源太を中心とする紙漉き技能の高い人々のグループの活動がありました。これらの人は、全国各産地に派遣されて指導を行い、また全国各地から高知へ技術習得のために送り込まれる紙工を受け入れて、技術指導をしました 。

明治の和紙の開発主体

明治の和紙の抄造技術は2種類の主体によって開発されました。公的機関と民間の技能者たちです。質的変革については公的機関において主導され、量的な拡大については主に民間においての研究開発がもととなりました 。民間で特に大きな展開がみられたのが高知県土佐和紙産地でした。

高知県では、明治期に入って和紙生産額の対全国地位を上昇させ、明治中期から大正期を通じて第一位を維持したことから、「紙業王国」といわれましたが、これは改良紙や特種紙という新しい紙が開発されたことによるところが大です。大蔵省印刷局抄紙部長であった佐伯勝太郎も手漉和紙業者の将来に危機感を抱き、手漉和紙の製紙家には「専心力を上等紙の一方に注がしむる」べきであると考え、そのように発言していました 。この「上等紙」というのは改良紙や特種紙と呼ぶ紙のことです。これら2つの主体によって開発された技術は以後の手漉き和紙業界全体に大きな意味をもち、明治の和紙の原点となりました。

この高知県の土佐和紙産地の中で中心的な役割を果たしたのが、吉井源太でした。

紙の製法の始まり

紙の製法は、中国で2000年以上前に発明されました。これまで通説となっていた、後漢(25-220年)の蔡倫(さいりん)による発明よりも前であったことが確実であるとされています。後漢より前の時代につくられた紙の断片とされるものが発見されています 。日本では、中国から紙の製造技法がもたらされ、紙漉きが行われるようになったとされていて、このことが記録されている時からも1300年以上の歴史があります 。中国から紙の製法が伝わって後、日本では、中国とは異なる漉き方や紙の種類が工夫されてきました。
古代中国において「紙」(し)という文字が表したのは、蚕の繭からとられた真綿(まわた)の古くなったものを引き伸ばしたシートであるとされています。その用途は衣料用であったとされ、紙の発明者とされてきた蔡倫は、紙(し)の原料が繭という動物繊維であったものを、植物原料である麻の繊維で摸造し、量産できるように工夫した人であったというのが現在の理解となっています。またこれによって文字が書きやすい、文房具にふさわしい紙が出来上がることになりました。紙は文房四宝の一つとされますが、他の三宝である墨、筆、硯の役割は紙において決定されると書家の榊寞山は書いていました 。