紙の交流・源太と日本の和紙産地

吉井源太没後110年記念企画展
紙の交流・源太と日本の和紙産地
-明治から始まった絆を、新たに結ぶ-

開催期間:2018年10月6日~11月11日
会場:いの町 紙の博物館 (高知県吾川郡いの町)
監修:村上弥生(香川大学特命講師・博士(農学))
パネル構成:久保慧栞(コピーライター)

吉井源太没後110年記念企画展の内容

吉井源太没後110年記念企画展の内容が固まりました
高知県いの町の紙の博物館で、「紙の交流」をテーマとした企画展を開催します。(チラシはこちら)
この準備のために島根県、鳥取県、新潟県、岐阜県、愛媛県の産地を2018年5月から8月の間に訪問させていただきました。
この時の訪問記も順次、書いていきたいと思いますが、産地訪問を終えて、企画展の内容が固まってきました。
明治時代に吉井源太がこれらの産地とどのように交流したのかを源太の日記から探り、まとめたパネルを日記本体やそのほかの実物と共に展示します。
これらの産地の現在の姿もパネルにまとめてご紹介します。
これにともなって、10月20日(土)には、これらの各産地と、地元高知県の紙漉職人さんなどに集まっていただいてフォーラムを開催します。
私も少し講演をさせていただき、その後にゲストと共にパネルディスカッションを行います。
吉井源太が生涯をかけた仕事には「外へ向けての発展」がありましたが、これと共に「内の交流」があったと考えています。
ゲストとして来てくださる産地では時代に合った新しい動き、考えをお聞きすることが多くありました。
多様な姿を持った和紙の新しい流れを感じられる機会になることを願っています。

鳥取の和紙産地再訪

2018年5月に鳥取県の紙産地を再訪しました。
青谷町の和紙工房・山田館長さん、大因州製紙協業組合の理事長、専務理事や資料館をご案内くださった塩さんご一家、因州和紙協同組合の長谷川理事長さん。
佐治町の佐治紙業協業組合の岡村理事長さん、和紙工房かみんぐさじの専務取締役・井上さん。
お時間を割いて色々なお話を聞かせてくださったり、由緒ある場所を案内してくださったり。
本当にありがとうございました。


青谷町にある因旛紙元祖碑

佐治町にある佐治紙祖碑

2003年に、「和紙について勉強を始めた人」として、とにかく各和紙産地を見て回ろうという姿勢でうかがって以来の産地でしたので、感慨がありました。その時も色々親切にお話をしていただきましたが、自分の方で知識を持ってから聞くのとは、やはり違うと感じました。
印象として、そのころより、何か、新しい動きを感じられた気がしました。
当時は多分、この産地の主力産品である書道用紙が売れなくなる一方、新しいこともまだ始まっていないという状況だったのでは?と思います。

また、改めて強く印象に残ったことは、紙漉きの漉場の清浄さでした。
そして、紙を漉く人々の芯の通り方のようなもの。
そうでなければ清浄な紙は漉けないのだなという感じがしました。
こういうことは今までも本で読んでいたのかもしれませんが、今回改めて実感しました。
「産業」という目だけで見ることに何か間違いがあるのではないかということを考えました。

青谷では吉井源太とのつながりのお話がうかがえたことも大変うれしいことでした。


美を感じさせる紙漉き道具(青谷町の長谷川製紙所にて)

鳥取駅コンコースの「因州和紙の花アート」展示ー梨の花と白うさぎ

明治初期の和紙の状況

明治という時代の始まりに際して、和紙の生産や販売状況は大きく変わりました。これ以前は、藩の販売ルートや出荷の統制などがありましたが、それらがなくなる一方で、需要の急増があったために、粗製乱造が起こるなど、大きな混乱が見られました。国内での混乱の一方で、海外からの動きにもさらされることになります。明治維新により、これまでなかった海外の文物が流入するようになると、西欧で製造された紙が入ってきます。西欧で作られた紙のことは、この当時「西洋紙」と呼ばれ、これに対応して、日本で作られた在来和紙は「日本紙」と呼ばれました。日本に輸入された西洋紙は、印刷用紙や筆記用紙などとして使われました。
和紙を書画に用いる場合、墨・硯・筆が使われて来ました。ススと膠を練って作られる墨をすった墨汁を使い、筆で書く。在来の和紙は多くが楮(コウゾ)製であり、墨と筆で書くことに適していました。しかし、新しく西欧から入り、用いられるようになった印刷インキやペンのインクに対しての適応性はありません。印刷に対しては毛羽立ちが起こり、また、ペン書きの際には水性のインクがにじむなどのことが起こります。大量の需要が見込める印刷用紙、また、文書用紙において、和紙に替わって西洋紙が使われるようになることは必然の流れであり、和紙業者には大きな不安が起こってきました。

吉井源太没後110年記念企画展のお知らせ

吉井源太没後110年記念企画展
「紙の交流・源太と日本の和紙産地」
―明治から始まった絆を、新たに結ぶ―

(会場)
いの町紙の博物館 2階展示室
(〒781-2103 高知県吾川郡いの町幸町110-1 tel.088-893-0886)

(会期)
平成30年10月6日(土)~11月11日(日)
(月曜休館/祝日の場合翌日休館)

(内容)
明治時代に交流のあった紙産地との、新たな交流を。
いの町紙の博物館では、これまで、高知の紙産業発展の礎を築いた製紙家・吉井源太関連の企画展をたびたび開催して参りました。
平成30年、吉井源太没後110年(明治維新後150年)を記念した企画展のテーマは、「紙の交流」です。(源太没年1908年、明治維新1868年)
明治維新後、殖産興業の波に乗って新しい紙の開発が相次ぐなか、日本各地の産地から、職人たちが源太のもとへ、製紙技術や製紙道具(改良による量産化)などの新技術を学びに訪れました。あるいは、産地の要請に応じ、源太や周囲の職人たちが製紙技術の指導に出向いています。こうして明治時代に技術指導が行われた紙産地は、3府28県に及びました。その交流は大変深く、有意義なものが多く、お互いの産地に大きな足跡を残しました。
いの町紙の博物館は、吉井源太が残した詳細な日記の記録などから、島根県・鳥取県・新潟県・岐阜県・愛媛県の産地と、新たな交流を行います(産地は予定)。

土佐の吉井源太

吉井源太は、土佐藩へ御用紙を納める役割を担った御用漉家に生まれ 、自らも抄紙にたずさわった人です。文政9年(1826)に土佐和紙の中心的生産地域の一つであった吾川郡伊野村(現吾川郡いの町)に生まれ、明治41年(1908)に没するまで、土佐和紙の改良・発展に努めました。吉井は、当時の紙研究の最先端を行く研究を行っていた、大蔵省印刷局抄紙部という公的な機関はもとより、産業の振興を任務とした農商務省のほか、各地の紙商や貿易商などとも広く関わりを持ちつつ、情報を集めて研究を行い、新しい紙を開発していきました。
吉井源太は、明治期を通して日記を残しました。これは「いの町保護文化財」として高知県吾川郡いの町に保管されています。この日記は、明治10年代の日記(14年~が主)と明治20年から39年までの各年分の日記で、およそ1年分が400字詰め原稿用紙100枚平均になる分量です。
土佐和紙産地の中でも和紙抄造および新技術開発の中心地であった伊野周辺には、吉井源太を中心とする紙漉き技能の高い人々のグループの活動がありました。これらの人は、全国各産地に派遣されて指導を行い、また全国各地から高知へ技術習得のために送り込まれる紙工を受け入れて、技術指導をしました 。

明治の和紙の開発主体

明治の和紙の抄造技術は2種類の主体によって開発されました。公的機関と民間の技能者たちです。質的変革については公的機関において主導され、量的な拡大については主に民間においての研究開発がもととなりました 。民間で特に大きな展開がみられたのが高知県土佐和紙産地でした。

高知県では、明治期に入って和紙生産額の対全国地位を上昇させ、明治中期から大正期を通じて第一位を維持したことから、「紙業王国」といわれましたが、これは改良紙や特種紙という新しい紙が開発されたことによるところが大です。大蔵省印刷局抄紙部長であった佐伯勝太郎も手漉和紙業者の将来に危機感を抱き、手漉和紙の製紙家には「専心力を上等紙の一方に注がしむる」べきであると考え、そのように発言していました 。この「上等紙」というのは改良紙や特種紙と呼ぶ紙のことです。これら2つの主体によって開発された技術は以後の手漉き和紙業界全体に大きな意味をもち、明治の和紙の原点となりました。

この高知県の土佐和紙産地の中で中心的な役割を果たしたのが、吉井源太でした。

紙の製法の始まり

紙の製法は、中国で2000年以上前に発明されました。これまで通説となっていた、後漢(25-220年)の蔡倫(さいりん)による発明よりも前であったことが確実であるとされています。後漢より前の時代につくられた紙の断片とされるものが発見されています 。日本では、中国から紙の製造技法がもたらされ、紙漉きが行われるようになったとされていて、このことが記録されている時からも1300年以上の歴史があります 。中国から紙の製法が伝わって後、日本では、中国とは異なる漉き方や紙の種類が工夫されてきました。
古代中国において「紙」(し)という文字が表したのは、蚕の繭からとられた真綿(まわた)の古くなったものを引き伸ばしたシートであるとされています。その用途は衣料用であったとされ、紙の発明者とされてきた蔡倫は、紙(し)の原料が繭という動物繊維であったものを、植物原料である麻の繊維で摸造し、量産できるように工夫した人であったというのが現在の理解となっています。またこれによって文字が書きやすい、文房具にふさわしい紙が出来上がることになりました。紙は文房四宝の一つとされますが、他の三宝である墨、筆、硯の役割は紙において決定されると書家の榊寞山は書いていました 。